目的合理性の儚さとそこからの脱出


中高のテニス部時代、部室や下校時間に交わしていた『あーでもない、こーでもない話』が大好きだった。

トピックはその時々の思いつきだし、ゴールもないんだけど、楽しかった青春時代で思い出すのは試合や練習ではなく、あの時間。あの時間を体験するために今も働いてる感すらある。

ビジネスでも強いチームほど、よく雑談し、よく飲みに行き、よく合宿し、一緒に『あーでもない、こーでもない話』をしている時間が長く、逆にそれがないと一時的には良くても段々と行き詰まっていく印象がある。

そんな背景から『あーでもない、こーでもない話』こそが組織やチームに大切なのでは、という仮説を最近考えていた。

通常、組織で意図して設計されるミッションや戦略、意思決定に関するコミュニケーションだけでは大切なことの一部しかカバーできず、むしろ「設計されたコミュニケーションの外」にこそ、大事なコトが落ちてるんじゃないか仮説。図にするとこんなイメージ。

ここで思い出したのが、女子高生とかがカフェで延々と恋バナやうわさ話をしている一見、ものすごく非生産的な会話が、古代の人類にとって集団内の掟を破る者や外敵の存在に気付くために欠かすことのできない情報伝達手段だったとする進化生物学の説。要は、とにかくペチャクチャ喋っておくのが有効な生存戦略だったという話。

また別の方面で、不完全情報下でターゲットを突き止めるのに最も効率の良い戦略は、秩序のとれた規則的な動きではなく、バースト(爆発的な行動)を含んだある種デタラメな探索である説や、最善の学習戦略は自分で考えるのと外に情報を取りに行くのが1対9(!)だとする研究がある。

これらは一見すると無駄なレベルでの探索行動によって、それまで認識できなかった情報に触れられるし、袋小路にはまらないし、多様な情報に触れることで知の交配が起き、生産性が高まるって話である一方で、人間の見通せる範囲内の目的合理性が自分たちが思っているほど合理的でないことを痛感させられる話でもある。

残念ながら、我々の脳は現実世界の変数のほとんどを見通せていなくて、自分たちの感覚の数百倍は不確実な状況に置かれている。図にするとこんなイメージ。

この前提に立つと、目的合理的なコミュニケーションばかりしていると必然的に盲点が大量にできてしまい、個人や集団として淘汰されやすくなってしまう。

逆に目的合理性を手放して、とにかく円の外側に出ていくことが一見、非合理的に見えても生存戦略としては合理的。

この文脈において、冒頭の『あーでもない、こーでもない話』は円の外側の情報を流通させるために組織にとって欠かせないものになる。古代の人類がペチャクチャ話すことで生存確率を高めたのと全く同様に。

さらに突き詰めると、ビジネス上の思考や行動も合理性を手放し、半ばわけも分からずとにかく点を打つことこそが良い結果につながっていく。

宝くじを買わないと「当たり」を引けないのと同様に、思考や行動、情報も点を打たないことには「当たり」を引けない。そして、人間の限られた知性では狙って「当たり」を引くことは難しく、大量に点を打つ中でいつか「当たり」が見つかる、という認識で点を打ち続けることが必要なのだろう。

ベン・ホロウィッツは「HARD THINGS」の中で印象的なことを書いている。

私は成功したCEOに出会うたびに「どうやって成功したのか?」と尋ねてきた。凡庸なCEOは、優れた戦略的着眼やビジネスセンスなど、自己満足的な理由を挙げた。しかし偉大なCEOたちの答えは驚くほど似通っていた。彼らは異口同音に「私は投げ出さなかった」と答えた。

投げ出すことなく、点を打ち続けられる人でありたい。